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2010/1/19 語る資格なけれど向き合うべし
去る、昨年の12月2日・・・
私は、私として複雑な思いが絡むネットで知ったある人をモチーフに
一つの詩を書いたことがあります。
それに関して、その人物らしき人から、律儀なことに返事が返ってきました。

その内容の一つに、今日の記事として書くに至った、ある書き込みがありました。
本来なら、誰かの返信をこのように記事にして書き写し、反映すること、
それも第三者が見て余り気持ちよい思いをしないであろう内容を出すことは
正直、望むところではありませんが・・・敢えて書かせて頂きます。

理由の第一は、その人が匿名の名前を使ってここに書き込んでいることです。
匿名であることでその人に危害が及ぶリスクは少ないだろうと判断して上げさせて頂きます。
ただ、せめてもの僕の良心の呵責の証明として
今から引用するカッコの中の言葉は、背景と色を同化させて頂きます。
お手数をお掛けしますが、見られる方は、カッコ内をドラッグしてお読みください。

人に嫌な思いをさせないのが電脳の世界の流儀なのではなかったのですか。』

・・・正直、僕は『なるべくなら嫌な思いはかけないようにしよう』とは
言ったことがあるかもしれません。
それを言った人には申し訳無いし、裏切りに見られるのは覚悟の上ですが
もしも、そのような流儀があるとするのなら
間違い無く僕には、そのような流儀を語る資格など、全くありません。
加えて、『電脳の世界』だけに限定して、現実と分けてしまう理由もありません。
自分の不器用さとはしっかり向き合うことでありましょう。
コミュニケーションは、どんな形であれ、人と向き合ってこそのものです。

しかし現実には・・・この地球上に住む60数億の人間全てに
これが当てはまるとは限らないのが、この世の中です。

『嫌な思いをさせない』、確かに人が嫌がることをしないのはベストではありましょう。
しかし、日本の政治の世界でほんの約2年前にあったように
『迷惑なことしない』のどこかの元首相の猿真似では
政治・外交の世界だけにとどまらず、個人や組織の衰退を招くこともあるのです。

親しい仲であっても、あえて相手にとっては嫌かもしれないことを
申し上げる必要性があるときもあるでしょう。

それと別に、その人間が多くの人を不幸にしたり悲しませたりするような人間で
本当にキツい言葉や態度で叩かれなくては
到底、彼/彼女の災厄性が自覚できなかったらどうするのか?

かつて僕は非常に我がままで自分勝手で傲慢で
多くの人々に憎しみや哀しみ、不快感を与えてきた人間でした。
今でも、自分にそんな部分が無いか不安にかられることが無いことはありません。

しかし、一度強く叩かれた経験があって、初めて気付くことが出来ました。
後は少しでも人を不幸にするのではなく幸福にするようにやれるだけ実践。
そして、一緒にいてどれだけ心から笑えるか、その笑顔の量で
自分はどれだけマシになったかの指標とさせて頂いてます。

更にその方は続けます。
その人とはその前の日にもこれから楽しくやっていきましょうね、と話をして
 楽しみにしていたのに。
 その言葉が原因でその人はその地を去り、
 結局その世界からも去ってしまったのです。
 貴方は忘れてしまったかもしれませんが。
 直接的に人に失礼な言葉を投げつけたのは貴方もです
。』

その時から月日は流れ、どうやら僕が何かの形で
冒頭の発言を残した人と関わりある人を、僕は叩くことになったようです。
しかしながら、別に僕は『正義のハンマー・ユンボをかざせ!』と言わんばかりに
僕が正しいと位置づけてこのような言動・行動をとったわけではありませんし
そのような過去に犯した独善が招くものは、絶望ということはわかっていました。
(冒頭の人は『アンタも破壊者だ』と僕を断罪して
 その先どうしたいのかが念頭に無いみたいですけど・・・)

その人が誰なのかは100%の特定は出来ないのですが
礼儀作法に関して問題がある人だったり
人の心に土足でドカドカ踏み込んでくるような人だったりした人だったり。
合計2名ほど、思い浮かびました。
その人達が、僕の『嫌な思いをさせる』言葉が原因で去ったというのです。

経緯としては、その時までに
『この言動・行動はいくらなんでも人としておかしいんちゃうんか・・・?』という疑問を
大学の一・二回生の身分ながらそれらの人々に対して持ち始めて、それから
僕なりに色んな先人達を見てきて、学んでいくうちに
やはり悪い意味でその人達が妙であることを思っていて
ある日、その思いが噴出した・・・という具合でしょうか。

2、3年前くらいのことで、恥ずかしながら僕の若気の至りもありました。
論理的に説くことができず、半ば感情的になってしまった部分は認めます。
しかし、今僕が知る優れた価値観や人間性を持ち
真っ当である人たち(僕と個人的な付き合いのある・なしに関わらず)とは
逸脱している点が見られたことは、今振り返ってもやはり妙なのです。

大体、何故その人達は僕なんぞの発言一つでそうして去ることを選んだのか。
それも、別に『死ね』とか『消えろ』とか人格否定の発言ではなく
『これはまずいんじゃないの・・・』という示唆の発言だったと認識しています。
言葉は悪いですが、或る意味彼らは、僕なんかの発言一つで『逃げる』ことを選び
己と向き合おうとしなかった『弱虫』なのではないのでしょうか・・・。
弱虫の僕から見ても『弱虫』な彼ら。
主観を述べさせて頂くならば、成長して頂けることを願います。

もちろん、冒頭の人が言った通り、僕がしたことは望ましいことではなく
僕もいつまでもそのようなことをしているわけにはいきません。
しかしながら『人の嫌がることをしない』として
おおよそ人としてよろしくない振る舞いをする人にまで必要以上に優しさを注いでしまうと
双方のためにならないこともありえるのではないでしょうか・・・。

冒頭の人が僕に言ったことは、ある意味そのようなアンバランスな優しさの
危険性も孕んでいるように思います。
また、その視点がどうも自分本位で
僕を『仮想敵』とでもしないとその論理を成り立たせられないのかということに
疑問を感じざるを得ません。

その結果が、昨今問題になっている『モンスターペアレント』や『若手の早期離職』
日本人の幼児化として、現出してきているのかもしれないな、と
懸念を覚えるこの頃でもあります・・・。

最後に、冒頭の人は最後に僕とは絶縁する、というような旨を残していきました。
また、かつて僕と冒頭の人がいたある組織を
冒頭の人はかなり望ましくないであろう形で去って行ったと聞きました。
僕はそこから別の組織へ動き、今は大切な絆にも恵まれました。感謝しています。

冒頭の人に関しては、実は私的にかなり考えていることがあります。
愚痴に聞こえる部分もあるかもしれません。
続きは、記事の下の『More』で書かせて頂きたく思います。

人は流動するものです。
この人にとっての僕のイメージは、僕に不信感を抱いたというあの時から
全く変わっていないのかもしれません。
一番哀しいことは、時間が経過しても昔の悪いイメージのままで
自分が偏見的に見られて、拒否されてしまうこと。

その人を多角的に見直してから『こいつ変わったな』『やっぱ変わらんな』と
落ち着いて見直してからでも遅くは無いように思います。
寧ろ『どれ、こいつがどれだけ変わったかお手並み拝見だ』という余裕は
貫禄などを感じさせて好印象なのではないでしょうか。



自分に関しては、願わくば、数ヶ月来、数年来に会う友人にとって
必要以上に悪い方向へと進んでしまわぬよう、留意するばかりです。
上の歌は、今日、この記事を書くに当たって非常に思いが合致する歌です。
(英語の歌詞ですが『うたまっぷ』の検索で歌詞がご覧になれます。)


今日の(・∀・)イイ!こと
近い将来、友達とおいしそうなタイ料理店に行けそうな予定が出来たこと



___________(Are you ready to confront?)___________

以下、背景と同色化しております。
お手数ですが、読まれる際はドラッグしてお読みください。


僕は、冒頭の発言を残した人のことをどう思っているのか?

『危険な』優しさを持っている、と書きましたが
僕はこの人に対しての怒り、憤懣、憎しみという感情は持ち合わせていません。
そこにあるのは、哀れみ、寂寥感、無念といった思いがほぼ100%を占めています。
この人が本当に優れた人だったと思っているからです。

優しさと素直さのある、年上の人から見ればこの人は『いい子』でしょう。
この人と比べて年下である僕らから見ればこの人は『いい人』でした。
気配り、礼儀、文章作法などもかなりの高水準にあります。
まさに、澄み切った青空のように澄んだ色が良く似合う人でした。


願わくば、ここから書くことが全て僕の思い過ごしであることを祈ります。


いつ頃からか、この人からどこか疲れきったような
ネガティブさが垣間見えるような発言が目立つようになってきました。
人生の『遊び』を愉しみ、感謝できていないような言動が出てきて
『本当にこの人は愉しいのだろうか、もったいないな…』と思うことも出てきました。
(その根本・原因に関する類推については、今回は触れません)

今思うことは、この人は本当に『優しすぎた』『素直すぎた』のかもしれません。
現在、この人が僕を見たら、恐らく僕は悪魔のような存在でしょう。
この人の目の前に僕がいて、近くに武器があったら
それを振り回すなりぶっ放すなりして僕を血飛沫溢れる肉塊へと
変えてしまいたいくらいなのかもしれません。

12月2日の記事での僕への反応も
僕に間違いがあればそれを諭すような口調ではなく・・・
なんだか、この人が僕に対して『勝手に(僕に)決め付けられて』と言ってることが
そのまんまご自分もそうなってしまっている切なさが見て取れました。
『お前はこう思ってるんだろう、どうせお前はこうなんだろう』と。
ちゃんと説明したらこちらも分かるし、反省できることもあるだろうに・・・。
ここでも、疲れきったような諦めと悲しみが見えました。
よりよく人生を志向しよう、向き合っていこうという姿勢は、全く見えませんでした。

むしろ、僕と『戦争』して、僕を完膚なきまで叩きのめしたいような・・・。
文章は丁寧ですが、自分に都合が悪いからという『私怨』のみで
公共の観点から憤りをぶつける『義憤』が全く見えてこないのです。
僕に反省すべき所がもしあるとしても、これでは僕でも反省点は分かりません。

偏見、諦め、そしてよりよく人生を歩んで行こうと志向できない、暗さ。
残念ながら、こちらはそう感じざるを得ませんでした・・・。
僕はその人に、『戦争』にならないように長い反応を返しましたが
その反応は、その暗い闇でまるで手探りになってしまうかのようでした。

もしも僕に過ちがあることを指摘したいのなら、そこを超越して物を言えていたら
この人も素晴らしい『大人』でありえたはずだし、その可能性を秘めている。

そしてこの人は、僕の発言から『逃げる』ことを選びました。
しかし、そうして逃げている限り、このように表出されることは無くとも
第二・第三の僕は、その人の目の前に現れる可能性は濃厚だと思います。
いちいち、そのような輩を相手にするような心構えでこの人は生きていくのか?
優れた才気を持ち合わせていながら、それは余りにも勿体無いことだ・・・。

by sannkaku-shikaku | 2010-01-20 00:38
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