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2008/6/6 正解と過ちの天秤の間を揺れる
誤解。
多くの人々が生み、または誰かに作られることで悩まされることでしょう。
そしてその清算を行う必要性に迫られることもあるでしょう。
この記事を作った僕とて、例外ではありません。

今日は、そんな僕のことを書いてみようと思います。


"I am justice!!!"

仮に、もし僕が、声高にこう宣言したとしたら、皆様はどうお思いになるでしょう?
『我こそ正義』。そう叫ぶ男を見て、どう感じますか?
多くの方は、傲慢で世界の見えていない奴だと思うと思います。
このBlogの記事を読んでくださっている常連の皆様方ならば
『自分本位が嫌だとか言ってなかったか、コイツ』とお思いになるでしょう。
まさにそのとおりだと思います。そう思われて当然でしょう。
他にこの表現はどうでしょうか。"I must be justice" "I am absolutely justice."
どちらも『私は絶対に正しい』というような意味です。

しかし、これならどうでしょうか。

"I may be justice."

『正しいかもしれない』。という主張と考え。
そこには、自分は正しくても間違ってもその結果を受け入れる用意もあるし
また、相手の箴言や忠告があり、そこにより良いものを見つければ
それを重視・優先していこうというスタンスが垣間見えるように思えます。

ここで、少々僕のことをお話しようと思います。
『さんかく記』ともいいますか、僕の19歳という比較的短い生涯の中のお話です。

幼少期。おおよそ中学二年くらいまでは
僕は前者の『I am justice』の人間でした。何故かはっきり記憶に残っています。
子供のころです。なぜそんな思考になったのかは恥ずかしながら分かりません。
しかし、それ故に子供ながら多くの人間を傷つけて迷惑がらせてきたであろうことは事実。

心底恐れることは、雀百まで踊り忘れずとは言ったもので
殆ど成人となった今も、この自己中心的思想が潜在的に溢れ出てしまっているらしいとき。
『骨の髄まで野良犬根性が染み付いてやがる 全く嫌になるぜ』
(『BLEACH』阿散井恋次の台詞より)

思春期に入り、中三くらいからは少しずつは人の話を聞けるようになってきたようです。
とはいえ、あくまでも主観的であるという不安は拭いきれないのですが・・・

意見をまとめつつも、相手の意見も尊重するという心は忘れておりません。
僕は考えたことをなるべく包み隠さず話してみよう、と思うタイプです。
親しい間柄であればよりそうしたいと願う傾向にあります。
これには理由があります。

(『戯言をほざくな』と思われた方は、ここより先の文を読むことをお勧めできません。)

欠陥品人間の僕と親しくしてくれる人々は、どの人も尊敬に値する所のある人ばかりだし
私がその人たちに話したことに反応があって
それらの反応が私を成長や啓蒙に導いてくれることは
多々あるからです。感謝してもしたりないほどだと思います。
なので、自分から意見も申し上げるのですが
それを断固として押し通すことは命の危機でも迫っていなければしませんし
例えば人に何かを依頼したり、要望が出てきてしまった際には
一度それを出してみて、相手の方の御考えやスタンスも尊重してあげたいとも思います。
常に脳裏においております。
何故なら、依頼・要望は自分の『欲』から来ているものであり
それを押し通すことは傲慢という人の心を最も踏みにじる非人道的兵器になりうるからです。
これでは、キリスト教を広めたいという『欲』のあまりに
カリブやアメリカ大陸の先住民をブチ殺しまくった昔の西洋人と殆ど変わりありません。

しかし、僕は敵意の中で育ってきた分がいくらかあって
そのために自分を『武装』してしまっている部分があるせいなのか
残念ながら言葉が威嚇的に捉えられてしまい、失敗することもしばしばあります・・・。
一番怖いことは、僕のせいで相手が僕の失敗に耐え切れなくなって
『傲慢』『自分勝手』『独裁的』と思われてしまうことです。
(自身を機械に例えるなら、修復・補修箇所とするべきところなのだろうか)

強調のために、語調を若干強くすることはあるでしょう。
明瞭に伝えたいがために、分かりやすい表現を使うことも多々あります。
あまりに単調では、人間はつまらなくなってしまうだろうし
マンネリでは、人生がつまらなくなってしまうだろう・・・という考えからも派生しています。

しかし、どうか誤解しないで頂きたいことは
僕はどちらかといえば自分を『絶対正義』と見なしているという前提で話しているのではなく、
『自分は正義かもしれないし、悪であるかもしれないし、どちらでも受け入れる』という
スタンスを持っているということ。

他の方の観点やスタンスは見て、感じ取り、可能な限り尊重して差し上げたいし
(この『可能な限り』というのがまた厄介な表現でありますね・・・)
ましてや、すべてが自己中心でうまくいく独裁的な世界など望んではいないということです。

これが今回紹介した私の精神的な姿勢の一部です。
望ましい、とはしていますがあくまで主観的には変わりはないわけで
それでも僕が自己中心的で独裁的に見えるならそれもやむなしと思います。
俺を分かれ、分かれ、分かってくれと望みすぎることもまた、傲慢になりましょうから・・・

伝えたかった。僕の心の中の奇怪な構造。
どんなに奇怪でも、その構造は人間のそれであった。

『僕だって人間です。血の通った人間なんです。もう耐えられなかった・・・』
(大学1回生で所属していた演劇サークルで小生が演じた人物の台詞より)


今日の(・∀・)イイ!こと
久々にスパロボ会話ができたこと
by sannkaku-shikaku | 2008-06-07 01:10 | 未分類
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